世界は「物語」でできている?

頭の中のぐるぐる

現実ってなに

 わたしが働き始めたころ、よく仕事帰りに仲間と飲みに行きました。
 その時の話題は、だいたいが仕事に関する不満や愚痴。ときおり酔った勢いで「ぼくはねえ〇〇になりたいんすよ」と絡む人もいましたが、すぐに誰かが「現実はそんなに甘くない・・」と返します。

 そう言われてしまうと「まあ、そうっすよね」と引き下がるしかありません。
 もっとも「でもね・・」と食い下がる強者もいましたが。

 わたしたちが「現実」っていう言葉を使うとき、そこには厳しさ、何かしらの圧力を想定しているように思います。ではその「現実」とはいったい何なんでしょう。

絶対的な現実なんてない

 わたしは誰からも独立した絶対的な現実というものは存在しないと思っています。絶対的な現実という一つのステージの上で、誰もが生きているという世界観をなんとなく怪しんでいます。

「現実」は、わたしの「現実」、あなたの「現実」という個々の中に存在していると思うのです。
うまく伝わらないかもしれませんが、わたしの中では一人ひとりが別の世界?を生きているという感覚がどこかにあるのです。

「物語」の中で生きている

 「別の世界」、言葉を変えれば、一人ひとりがそれぞれの「物語」の中で生きていると表現するといちばん収まりがいいように思います。

 生きている世界(人生?)を「物語」に例えるのは、わたしのオリジナルではありません。同じようなことを発信している人は五万といます。「虚構」、「フィクション」、「幻想」、「仮想現実」、「ゲーム」言葉もいろいろとあります。

 でもこの「物語」という世界観(人生観)が、わたしにはいちばんしっくりとくるのです。

「物語」という世界観

 この世界観(人生観)に至ったのは、たくさんの心を病んでしまった人の相談にのってきた経験と、少しでも「人間」について知りたいと思い、哲学、宗教、歴史、心理学、脳科学、教育学、経済学など薄っぺらな表面だけですけど、のぞき見をしてきた経験からです。
 日本人であるというベースも強く影響していると思います。
 一神教の世界では、神様が唯一絶対的な存在とされていますが、一神教の世界に限らず、宗教も一つの「物語」であると思います。

 学校という「物語」、会社という「物語」、世間という「物語」、家族という「物語」・・・
 この世界は、いくつもの「物語」がリンクしあい、影響しあいながら、互いにそれぞれの「物語」の中に存在しているように思います。

 わたしは、わたしの「物語」の中で主役として生き、誰かの「物語」の中で脇役として登場しています。

主観的な精神世界

 わたしたちが「生きている」のは客観的な物質世界ではなくて、主観的な精神世界だと思うのです。そこには誰もが納得する絶対的なものは存在していないように思います。

精神世界を生きているなんて言うと、「だったらお前は霞でも食べて生きているのか」と言われそうですが、わたしは霞を食べたことがないのでわかりません・・(笑)。

 それと、「物語」という言葉がしっくりとくるのは、わたしは「物語」という言葉のニュアンスに、流動性?みたいなものを感じるからです。
 「生き方を変える」という作業をこれからしていこうというのに、「現実」なんて硬直したイメージだったら、いやじゃないですか。
 自分の生きている世界(人生)は「自由」に書きかえられる・・としたほうが希望が持てます。

 主観的な精神世界を「生きている」のであれば、その世界の解釈によって「物語」は変わってくるのではないかと思えるのです。

 それはたいへん難しいことなのかもしれませんが・・。

プロフィール
こけまる

還暦を過ぎた苔を愛するおじさんです。

ずっと、こころの病を持った人たちの相談にのってきました。
「人間」というものにとても興味を持っています。
 
理屈っぽいですが、堅苦しいことは嫌いです。
「イカした爺(じじい)になる」ことを夢見ています。
 
今までの自分を変えたくて、このブログをはじめました。
頭の中でぐるぐるしていることや、日常の様子など発信させてもらいます。

わたしの「物語(人生)」での出会いを大切にしていきたいと思っています。

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