「自由」は曲者?
自分の人生を自由に描き替えられたら、それは夢のようですね。
しかし、この「自由」という言葉、観念的にはとても良いイメージを持ちますが、実は曲者(くせもの)みたいです。
人は誰もが「自由」を求めます。それは本能的な欲求でしょう。
心理的リアクタンス
卑近な例を挙げてみます。
母親が子どもに「宿題やったの?」と聞くと、子どもは「今やろうと思っていたのに・・」と干渉されたことに腹を立てます。
これは、「心理的リアクタンス」と言って、選択する自由が外部から脅かされた時に生じる、自由を回復しようとする反発作用によって生じる感情です。だれでも一度や二度は経験していることでしょう。
人から何かを強制されたとき、反抗心を持ちやすくなります。人は生まれながらに、自分のことは自分で決めたいという欲求を持っています。
「自由」は孤独
人類の歴史は「自由」を獲得する歴史といってもいいでしょう。そのために多くの血が流れたことは、どこの国の歴史にも記されています。
そして今や多くの国において「個人の権利」=「自由」というものが獲得されています。
残された権利は「死ぬ権利」くらいだとも言われています(ほんとかな)。
しかし、「自由」は諸手を挙げて歓迎できるものでしょうか。
「自由」はその引き換えに「責任」が生じるという一面を持っています。
さらに「自由」を謳い、まわりと異なる状況にいると孤独感も感じます。何かに所属していなければ生活も不安定になります。
そして結局その重荷に負けて、何かに依存(服従)したり、まわりと合わせたり(自分を溶け込ませたり)という行動をとってしまいます。
この辺りは、エーリッヒ・フロムの著書、「自由からの逃走」に詳しく記されています。
弱い「人間」
「人間」は徹底的に社会的な動物です。個としては生きていけません。
以前、トム・ハンクスが主演した映画「キャスト・アウェイ」の中で、
飛行機事故に遭い、1人無人島に流れ着き、ぐうぜんあったバレーボールに顔をかいて、新しい友達に見立て、それを支えになんとか生き延びる・・。
というようなシーンがありましたが、一人無人島で平気で生きられるのは、よっぽど精神の強い人か、どこかずれている人だけでしょう。
「人間」って弱いですよね。何かとつながっている感覚が持てないと、何かに自分の存在を保証してもらわないと不安でたまらないのですよ。
孤独っていちばん怖いのですよ。
空気の支配
もともとわたしたちは、生まれてこの方、自分のやることをずっと指示されてきました。次に何をやるのかを外から与えられてきました。今になって急に「自由」だからお好きにどうぞ・・と言われても、結局まわりを見ながら、人のやっていることをまねるしかないのかもしれません。どこかの会社で服装が自由化されても、みな同じような服を着てくるといったことにも表れています。
特に日本には、「和を以て貴しとなす」という教えがあり、人々がお互いに仲良く調和していくことが最も重要とされてきました。
さらに、その場の空気だとか同調圧力といったものが働いて、状況倫理(その時の状況「空気」では、そうするしかなかった)にがんじがらめに縛られています。
この辺りは、山本七平先生の著書、『「空気」の研究』に詳しく記されています。
人は変わりたがらない
もう一つ、人間にはホメオスタシス(恒常性)という機能があり、それが心理的にも働いて、現状を維持しようとします。
わたしもたくさんの心の病を持って人たちの相談にのってきましたが、みなさん頭では理解していても頑なに現状を変えようとはしませんでした。
人は未来の不安より、現在の不満を選ぶ・・。まさにその通りです。
えらそうなことを言っているわたしが、「うつ」の兆候が見られても頑張ってしまったのも、そんなところかもしれません・・。
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